茶店妄想叙事詩

顔も知らない誰かの物語を執筆しています。

スタバもうそう叙事詩

限界を知る前に

帰宅ラッシュの雑踏が目立ち始めるこの時間、列車が線路を走る音や車のクラクション音、人々の談話と共に路上ライブのサックスが鳴り響いている。橙色に輝く夕日が一日の終わりを告げ、人混みで溢れている駅前で夢を追いかけるサックス奏者の男性。これが俗に言う “エモい” なのだろうか。こんな日、優雅にコーヒーでも飲みながら酔いしれようと思い、横断歩道を1つ渡り、某コーヒーショップに立ち寄った。いつも通り、注文を終えて、空いている椅子に腰掛けた。しばらくすると隣の男女の会話が聞こえてきた。「もう限界一歩手前だったよ」と少しにやけた表情で男性は女性に伝えた。

 

 彼に一体何があったのだろうか。それでは、勝手に妄想してみようと思う。

 

 あの日、彼はバックパックひとつでアジアの小さな村に立ち寄っていた。道路も舗装されていないような辺鄙な場所で、1日2本のバスが中心街とこの村をつなげている。こんな海外の田舎でも、日本製のバイクや車が縦横無尽に走っているではないか。そんな光景を見て、祖国の技術者たちの努力に感服させられている彼だが、定職に就かず、工場のバイトで稼いだ端金を握りしめて、フラフラとしている。

 日本を出発して3ヶ月が経とうとしている。海外で旅をしながら暮らすことにも、ようやく慣れてきた。人類は、稲作を始めことで、定住をするようになったらしいが、米を作るという立派な職業に就いていたからこそ、屋根の下で寝ることができていたのだろう。獲物を追い求めて、職を転々としているような者は、やはり流浪がお似合いのようだ。

 そして、昔と今も変わらないものがもう一つあるようだ。そう悪の存在である。もちろん旅で出会った人達は皆、仏のようではあったが、ならず者はどの時代どの場所にも必ず現れる。実以て、彼は朝目覚めたら靴がなくなっていたらしい。

 一体誰が、3日も風呂に入っていないような、30歳手前の男が履いていた靴を欲しがるのだろうか。取り敢えず、性悪説を唱えた荀子に清き一票を捧げるとしよう。

 それはそうと、今日から何を履いて歩けば良いのか。旅人は足で稼がねばならぬというのに。どこかに靴を売っている店はないのだろうか。ただ、本当に足で銭が稼げるわけではないので、軍資金は底をつきそうなのが現状ではある。仕方がないので、まずは裸足で歩いてみることにした。小さな砂利が微妙に痛いではないか。次に、所持している6枚の靴下を全て重ねる事で足裏の負担を軽減しようと試みた。これはなかなか良さそうだ。しかし、次の町に向かうバスの停留所は、徒歩で一日かかるという。こういう日に限って、ヒッチハイクで車が捕まらない。それでも彼は歩き続けた。途中で空腹を満たそうと訪れた、太陽光でピザを焼いているイタリアンレストランは定休日、やっと見つけた靴屋は、何故か競技用ハイヒールしか置いていない。運の悪い日は、追い討ちをかけるような不幸が連続して起こるのは、どうやら本当の事らしい。

 こういう時、旅人はふと思うのだろう。「あれ?今、自分は何をしているのだろう?」「やりたいことが他にあるのではないか?」

 

 バス停に着いた頃には、靴下は既にぼろぼろで、最後の一枚まで破れそうになっていたらしい。まさに限界の一本手前の経験をしたのだ。

 

 そんな彼にも、今は守るべき人がいて、夢を追いかけながら、ちゃんと定住をしている。