肩が凝る事務作業を終えた僕は帰路に着く。定時過ぎても白熱灯は煌々とフロアを照らしており、灯りを享受する人々からの恨めしそうな目線を背後に受けながら僕は会社を出た。向かう先はコーヒーショップ。甘いフラペチーノを飲みながら1日の疲れを癒すのが僕の日課だ。
新作のメロンを携えて窓際の席に座る。僕の背後では若い女性2人が話し込んでいた。
「その人がカクテルしか頼まないんだよねぇ」
そんな会話をなんとなく聞いていると、僕の中で一つの物語が思い浮かんできた。
これはあくまで、僕の妄想の話。
面白味がないと言われて片思いの女性にフラれたのは3年前のことだ。何の取り柄もない自分に嫌気が刺した僕は友人の誘いでこのBARに辿り着いた。
特別こだわりのなさそうな内装と、巨漢のマスターが作る繊細なカクテルは僕の心を癒すにうってつけで、それ以来、金曜の夜は仕事帰りにカクテルを戴くことにしている。
「カクテルにはそれぞれの物語がある」、とはマスターの言葉だ。
カクテルが誕生した国や経緯、名前の由来なんかを教えてもらうのは中々に楽しいものだった。その時代や風景を思い浮かべてみると酒の味も深みが増す。
人間、継続していると自然と知識は積もるものらしい、あれだけつまらない男だとされていた僕も、今ではカクテルを語らせたらこの店で右に出るものはいない。
普段であればその辺の陰気な大学生でも捕まえてウンチクの一つでも語ってやるところだが、残念ながら今日のBARには適当な若者がいない。
マスターは少し離れたテーブルで別の常連と話し込んでいる。なんとも落ち着いた金曜の夜である。
手元にあるダイキリを飲み干すかどうか考えていると、店のキッチンの方から声をかけられた。
「もしよろしければ、私がお作りしましょうか。」
おおよそこの店に相応しくないクールな美女が現れた。それに若い。バーテンダーらしい出立ちから成人はしているようだが。
「珍しいですね、女性が居るとは。この店には胸板の厚いマスターと人望の薄い客しか集まらないものだと思っていました。」
「人望は分かりかねますが、確かにマスターの胸板は厚いですね。私は丁度、マスターの胸を借りている立場なのです。」
言葉の意味を測りかねてると、
「弟子なんです。マスターの。」と続けた。
リナと名乗ったその女性は、どうやら今日からこの店で働くことになったらしい。
それから数週間が経つ。女性日照りの僕がリナさんに想いを寄せるようになるまで時間は掛からなかった。
いつものように金曜の夜、BARに顔を出す。どうやらまだリナさんは居ないらしい。
「今日はまだマスターだけですか。リナさんは後ほどいらっしゃるんですよね?」
マスターは髭を触りながらニヤつく
「お前さん、リナに気があるようだな。まぁ応援はするが、アイツは手強いだろうよ」
「マスターが背中を押してくれるなら今日にだってアタックしますよ。僕の恋心は本気ですからね。」
無骨な肩をすくめると、マスターはウォッカベースのカクテルを用意し始めた。
「そこまで言うなら止めはしないさ。これはサービスだよ」
マスターは透明なカクテルを僕に差し出すとキッチンの方へ引っ込んでいく。
このカクテルはーーー『カミカゼ』。
なんと失礼なオヤジだ!まるで特攻とでも言いたいのか!?
僕はカミカゼをひと口ぐいと飲んだ。
しばらくするとリナさんがやってくる。
「やぁ、こんばんはリナさん。今日は良い夜だね」
「こんばんは。いつも通りの夜かと思っていたんですが、良い夜だったんですね。」
ニコリと笑うリナさんに、『サイドカー』を頼む。
カクテル言葉、というのをご存知だろうか。花言葉のように、それぞれのカクテルは隠れた意味を持っていることがある。どこぞのロマンティストが考えたやら知らんが、これもこの店で得た知識だ。
今日の僕のプランは、恋心をカクテル言葉に乗せて注文するというものだ。そして最後にそのことを打ち明け、想いを伝える。バーテンダーの女性に向けた口説き文句としてはうってつけだろう。僕も大したロマンティストだったらしい。
注文を聞いたリナさんは魔法使いのような手捌きでカクテルを作り上げる。『サイドカー』のカクテル言葉は「いつも二人で」だ。
僕はサイドカーに口をつける。
「この店であなたと二人きりで飲むことが、僕にとっての幸福なんですよ」と微笑みかけた。
「そうですか。今日はマスターや他のお客様もいるのでハードラックですね。」とリナさん。
2、3口で飲み干すと続いて僕が頼んだのは『ニューヨーク』。カクテル言葉は「大人の恋」。
「僕も良い大人だからね、最近未来のことを考えるんだ」
「大人なら明日の朝の事を考えてペース配分したほうが良いですよ。」
小粋なトークもうまく行っている。やはり今日は良い夜だ。
いよいよ最後のお酒を頼むとしよう。
僕がフィニッシュブローとして選んだのは『スクリュードライバー』だ。ウォッカベースの強い酒だが、「あなたに心を奪われた」という意味を知ってから、僕の想いを載せるに相応しいカクテルだと決めていた。
ニューヨークを飲み干し、一息つく。
僕は意を決してオーダーする。
「リナさん。スクリュードライバーを一つお願いします。」
ところでスクリュードライバーのカクテル言葉をご存知ですか?
と、つづけようとしたところでリナさんが声を上げる
「あら?ごめんなさい、今日オレンジジュース切らしちゃってるみたいなんです。代わりのカクテル出しておきますね」
リナさんは手早くカクテルを仕上げると「料理の注文が入ったようなので厨房を見てきます。ごゆっくり」と言ってキッチンへ引っ込んでしまった。
疾風の如き手捌きを目の当たりにしてポカンしたまま、リナさんが出したグラスに視線を落とす。
濁った酒には、口を開けたアホ面が映り込んでいる。口をつけてみるとハーブの独特な香りがするウォッカ・ジプシーだ。
僕は顔を真っ赤にした。
「バーテンダーがカクテル言葉を知らないわけないだろう。安直な男だねぇ」
しばらくしてマスターが近づいてきて僕の肩を叩く。
「まあ、これも一つの結末だったってわけだ。カクテルにはそれぞれの物語、各tailがあるってな!」
ガハハという笑い声がBARに響いた。